海の向こうの風景

地平の更にその海の向こうに生きて来た日々

”太郎鮭”は、海の外に憧れ、そこにひたすら生きて来た。老いても鮭であった。回帰の遺伝子がしっかりと作用した。五大陸、四十数ヶ国に旅し、途中、サウジアラビアと米国に約八年間住み着いた。回遊は四十有余年に及ぶ。今、回遊を終え、故郷の清流番匠川が目前にある。鮭の回帰行動にこそ僻地対策の根本が存するのでは無いか、太郎鮭の想いである。老いた鮭の回遊の旅を振り返ってみたい。

鬼が曳く サウジアラビア回想(3)

 薄汚れた手荷物一つを小脇に大事そうに抱え、安っぽい皺だらけの長袖シャツを押し込んだよれよれのズボンは腰がちぎれんばかりにベルトできつく締めつけられていて、おろおろするばかりの浅黒い肌をした痩せた少年達。スカーフで髪を深く被い隠し、他人に肌を晒さぬように袖や裾の長い、一世一代の晴着を身に着けて来たに違いない、彩色豊なそれでも生地の質は悪そうな衣服を身に着けて、恥ずかしげにただ俯(うつむ)くばかりの無垢なる少女の一群。善男善女が曳かれていく。鬼達に曳かれていく。

 

 その鬼の身請け人達の格好と言えば、日本から輸入されたブランド生地で仕立てられた、ワンピースの如く全身を覆う乳白色のアラビア衣装で覆われ、頭部には黒い輪(イカール)を載せて、これに固定されて頭部をすっぽり覆う風呂敷のように大きなスカーフ(クフィーヤ)が僧帽筋を覆ってその肩から垂れている。猜疑心の強そうな目を嵌め込んだ、アングロサクソンにはやや及ばないものの、彫のやや深い顔の表面には丁寧に刈り揃えられた密度の濃い黒々とした髭がその半分以上を覆っていて、たわしの表面のようなその毛先は触れば手を傷つけてしまいそうだ。お互いを見知った鬼の身請け人達が、そこここでおっとりとした動作で挨拶を交わす。この地の男同志の挨拶は、そのたわしの頬を接しあうことで親密度を表現する。更に親密な関係であれば、お互いが手を繋いで歩くことになる。むさくるしい髭面の男どもが互いの手を握って歩く姿は、未だ太郎にとってはなんとも受け付け難いこの地の光景の一つである。

 

 鼻をつく体臭を隠したつもりの強い香水の匂いを当たり一面に振りまいて、その恰幅のいい身請け人達が何やら指を差し腕を広げ善男善女の鼻先で立ち動いている。一人一人を品定めするように、頭から垂れてくる風呂敷を女性が髪を掻き揚げる仕草で肩の後ろに払いのけ払いのけし、まるで仕入れた商品のように「商品リスト」で確認し、遂には俺のものだと言わんばかりに、ボタンがはじけそうに突き出た腹が窮屈に、砂(すな)埃(ぼこり)に塗れたサンダルのゆるい足取りで善男善女を曳いていく。南アジアやアフリカからの子羊達をあちらこちらで身請け人達が曳いていく。

 

 傍らでは、外国旅行から帰ってきたのであろう、前身黒ずくめの衣装に覆われた、首や腕に煌びやかなおよそそのファッションセンスを疑いたくなる華美な装飾品を身に着けて、女どもが、いずれ自分にかしずくだろう曳かれていく子羊達には目を留めることもなく、能面の如く顔を覆う黒いマスク越しに、おそらくは終えた旅のおしゃべりをしながら、過去にこの地に曳かれてきた侍女達を引き連れて、これも高価な香水のきつい香りを振りまいてその傍を通り過ぎていく。太郎は、顔を覆ったままでお互いを認識出来るかの地の人々の能力の不思議をいつも思った。その夫や子がその妻や母を確実に見紛うことなく遠くからでも認知する、何とも恐れ入る能力であることよ。

 

 たまに宗教警察といわれる古色蒼然の成りをした痩せぎすのムタワが華美な服装の誰彼に容赦なく鞭を振るっている。この光景はショッピングモールや人が集う場所では必ず目にする、外国人にとってはこの地の風物詩の一つでもある。無論、外国人でも容赦することはない。サウジ国王が二聖モスクの守護者でもあれば威を借りるに難くない。

 

 人を曳く。それは、太郎が日本からの来訪者を到着ロビーに迎えるまでの間、当たり前のように目にし、それが無垢なる少年少女なるが故にも、その度に切なくなる光景だった。

 

 中世王権社会に彷徨い込んだような気分に何度となくさせられてきたこの国のほんのその一端の日常光景である。その先にどのような善男善女の生活が営まれているのであろう。太郎には同じ人間にも関わらず、人々が国籍により容赦なく選別されていくことの非情を思わずにはいられなかった。太郎はといえば、ただ日本に生まれたことだけで優等国の国民として無条件にこの国に厚遇されている。国の実力と国民の人格が同一視されランク付けされる愚かさを太郎は思った。それでもこれら貧しい国からはそれぞれの分野でこの国の政府の能吏として、民間会社の有能な中堅管理職として重用される人々も多く暮らす。この国の、いや湾岸諸国のあらゆる実務をこれらの人々が支えていることを誰もが知っている。日本人が及ぶものではない。それでも生まれた国の国力がその扱いをランク付けする。悲哀はこれらの国々からのこの国の最下層を構成することになる善男善女がすべて背負い込むことになる。それは太郎の勝手な憶測かもしれない、一面的な見方かもしれない。善男善女はそれでも母国では得ることの出来ない夢のような現金を得ることが出来る。それを悲哀と言うのは感傷的にすぎぬのではないか、それぞれの国力に見合う幸せと言うことであろう。ただ、これらの人々の人格や身分が保証される世界でないことは確かである。

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外国人居住区(コンパウンドと称す)

 オイルマネーの威力はすさまじい。それを欧米先進国が国作りの名目でこの国のインフラ建設に湯水の如く放出させ湯水の如く吸い上げていく。善男善女が流し続けてきた汗ともども吸い上げていく。

 

 そろそろ礼拝を呼びかけるアザーンの小うるさい音響がイスラム寺院の尖塔に四方に向けて取り付けられた拡声器を通して聞こえてくる頃だ。日に五度は確実にあちらこちらで響き亘ってくる今は「電気音」に堕してしまったこの声は、昔は生の声で乾燥した空気を震わせて滔々(とうとう)と、それは西欧のオペラのテノール歌手にも勝る優雅な趣のある声量で高らかに厳かに届いてきたものだった。アラビア語は古来、誌的な響きを帯びた心地よい言語との評価を得て来たが、まさに現在でもその響きは知り得る限りの言語の中でも白眉だと思う。人々はこれを二千年を超えて磨き上げてきた。古語がそのまま現代語として概ね通用もしている珍しい言語でもある。日本のように多くの人々が古文を読めないということがない。あのコーランでさえ語感を大切にして編まれているという。アラビア語を解さずとも詩歌を朗読するが如く心地よく響いてくる。この時ばかりは時間が豊かに流れていく。恋人に囁く言葉としてアラビア語に勝る言語はないのではなかろうか。

 

 そのアザーンが空港内に反響して五月蠅く響き渡る。既に哀調は捨てられて質の悪い拡声器が単に音を拾って唸る。アッラーアクバル、アラーの他に神は無し。悪魔達には祈りは捨て置けない何よりも生活の中心を為す大事な行為である。やがて祈りを終えて同じイスラム教徒の善男男女を曳いていく。鬼のイスラム教徒が曳いていく。

 

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皇太子ご夫妻(現天皇皇后ご夫妻)初の外遊地・サウジアラビア

 

次稿は未定(それまでは、若き日に書き走った随想で時間稼ぎをさせて頂く)。