海の向こうの風景

地平の更にその海の向こうに生きて来た日々

海の外に憧れ、そこにひたすら生きて来た。五大陸、四十数ヶ国に旅し、途中、サウジアラビアと米国に約八年間住み着いたものの、年月を重ねると望郷の念、止み難し。その四十有余年を振り返り長い旅を終えることとした。

オスマントルコの魅力

 トルコは五指に入る思い出多い国である。トルコに興味を覚えたのは塩野七生の著作が発端である。「海の都の物語」に始まる。ヴェネチア(697-1797)の盛衰である。その交易の歴史である。「コンスタンテイノープルの陥落」(1453)、「ロードス島攻防記」(1522)、「レパントの海戦」(1571)、と彼女の地中海三部作を読まない訳にはいかなくなってしまった。いずれもオスマントルコ(1299-1922)が圧倒的存在なのである。この帝国無しには地中海世界が見えて来ないのである。西欧世界にとってのヒールである。まさに物語に不可欠の存在なのである。

 

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 そうこうするうちに何故かビジネスでトルコに縁付いてしまった。というかその様に自分で仕込んだと言えなくも無い。記憶の許す限りでは少なくとも五回は訪問したろうか。イスタンブールカッパドキアはその訪問回数だけ訪れることになった。いずれも著名な観光地であるが観光の為では無い。何度訪問しても飽きることが無い地であることは間違いない。歴史ある土地は世界のどこでも魅力に溢れている。アメリカだけはそこが欠落していて満たされることが少なかった。人間も同じである。若ければいいというものでも無い。

 

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 トルコでは二つの別々のビジネスを動かした。中でもそのビジネスの相手の一つがトルコ中央部にあるカイセリという街に本社を置いていた。古くはカッパドキアの首都であった。因みにカイセリとはローマの軍人カエサルのトルコ読みである。ローマ皇帝ティベリウスカエサルの都市、カエサレアと名付けたことに始まる。だからビジネスとはいえカッパドキアを観光しない訳にはいかない。イスタンブールは説明するまでも無い。東ローマ帝国ビザンティン帝国(395-1453)の首都であった。オスマントルコに征服される前はコンスタンテイノープルと言った。コンスタンティヌスの町である。一千年の都であったがオスマントルコ・メフメット2世の前に散った。塩野七生がその攻防戦を実に魅力的に書いている。

 

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 イスタンブールを発って空から眺めるアジア側のトルコ内陸(アナトリア高原)の光景は、「殺伐とした」、としか表現しようが無い。生きるに厳しい土地だと直感した。森林が全く無い。草原と岩肌の世界である。まるで旧約聖書の創世記に出てくる世界のようだった。ノアの方舟が辿り着いたアララト山もそのトルコ東方にある。それが本当の話だったのではないかと思いたくなるような荒々しい光景が今においても広がっているはずである。

 

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 そういえば面白い話がある。もとは欧州とアジアを分かつボスポラス海峡は繋がっていた。トルコの北にある広大な黒海は陸地であった。ただ海水面より低地であったことが悲劇を招いた。何かの拍子でこの地峡当たりが割れて地中海の海流が一挙にその低地に流入した。それが黒海を造った。まさに旧約聖書にある大洪水であり、ノアの方舟の物語に繋がってくる。位置関係からするとアララト山に辿り着いたのもまんざら嘘ではないような気がしてくる。きっとその時代に造山運動が活発で地震が地峡を造りアララト山を高山へと押し上げたに違いない。

 

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 唯一、ロードス島だけはビジネスが流石に無い。それでは塩野七生についていけない。観光で訪問するしかなかった。つい地中海クルーズと頑張ってしまった(アテネーイドラ島ークレタ島サントリーニ島ロードス島ーエフェソスーミコノス島)。オスマントルコのはるか以前のエーゲ文明も堪能することが出来たのは余禄であった。これで塩野七生の物語の舞台の実地踏査をすべて完遂した。それぞれの物語が更に迫力を増したことは言うまでもない。

 

 さて、トルコ料理世界三大料理の一つである(個人的にはトルコ、タイ、韓国のそれが三大料理と思っている。現地の知人に現地の生活の中にある料理を食した経験による。粋を尽くした味わいがある。飽きずに食べ続けさせてこそである。)。その国土の荒々しさからは素晴らしい料理の材料を提供してくれる風土にはとても思えない。なのに、どの訪問地の料理も絶品なのである。トルコはまたチーズ発祥の地と言われるだけあって種類が豊富で美味い。このような多種のチーズはフランスやイタリアでも味わった事がない。古くより遊牧をやりながら広大な中央アジアをしたたかに生き抜いて来た民族である。その熟成があらゆる分野で結実しない筈がない。究極がオスマントルコである。

 

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 西欧はそのオスマントルコを恐れた。ローマ帝国の版図と遜色ない強大な帝国である。遂にはウイーンが包囲された。しかも相手はあのイェニチェリ軍団である。皇帝直属で妻帯も許されない精鋭の軍隊である。一度聴いたらまず耳を突いて離れないあの軍楽隊のマーチと共に迫って来たのである。それはそれは恐ろしかったであろう。ベートーベンもモーツァルトもこの軍楽隊の行進曲に刺激を受けてトルコ行進曲を書いた。それだけインパクトが大きい音調なのである。筆者はNHK土曜ドラマ「阿修羅の如く」(向田邦子、1979年)の主題曲としてこの曲を初めて聴いた。なんとも異様な音楽だと思った記憶がある。未だ若かりし八千草薫が綺麗だった。

 

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 さてビジネスである。もう一方のビジネスでは現エルドアン大統領(当時はトルコ首相であったが既に最高権力者であった)との首都アンカラの首相府での面談に漕ぎつけた。換言すれば、危ない利権の温床に辿り着いたという訳である。ニューヨーク駐在時代のことである。米大手エンジニアリング会社との連携が奏功した。以来、彼は未だその権力の座にある。ビジネスはと言うと、いずれもその後頓挫してしまったが悔いはない。個人的にオスマントルコを得たのである。たっぷりと堪能したのである。

 

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 昨今のトルコには建国者が偉かっただけに失望感がある。イスラム世界で初めて政教分離を推進し、これがトルコの近代化に寄与した。ムスタファ・ケマル(ケマル・アタチユルク)である。今、エルドアン大統領は政教一致の昔に後戻りしようとしているかに見える。憂慮すべきことである。オスマントルコは歴史の中だけに留めておくのがいい。その復活は西欧にとっては悪夢の再来であろう。

 

 ふと思ったことがある。そのトルコの地勢である。欧州とアジアとの結節点を取り込み海も支配した。あの大友の豊後も同じ地勢にあると思った。豊後も海を挟んで九州、中国、四国の結節点に位置した。お互い火山国でもある。豊後もかつてはその中央部が地殻変動で海に沈下する運命にあった。ボスポラス海峡と同じ運命である。こちらは阿蘇カルデラ噴火が沈下を救った(?)。だが強力な支配体制と偉大なスルタンに恵まれなかった。日本のオスマントルコには遂になれなかった。地勢というものは結構大きな歴史変動を引き起こすことは間違いない。