海の向こうの風景

地平の更にその海の向こうに生きて来た日々

海の外に憧れ、そこにひたすら生きて来た。五大陸、四十数ヶ国に旅し、途中、サウジアラビアと米国に約八年間住み着いたものの、年月を重ねると望郷の念、止み難し。その四十有余年を振り返り長い旅を終えることとした。

ロシアより愛をこめて

 ショーン・コネリーダニエラ・ビアンキの話ではない。

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 ロシアはやはりビジネスで訪れる国では無い。当時はそう思った。ビジネスなんてやっている場合では無い。至る所、歴史と芸術の精が纏わりついているようで、かつ、こういうのを大国というのだろう、と納得した記憶がある。西欧とは違う独特の雰囲気が漂ってくる国で、何か威厳を感じさせるものがあった。ロマノフ朝の残光だったのであろうか、もう数十年も前、エリツィン大統領の時代の話である。

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 かつてロシア宮廷ではフランス語が公用語のように使用された。17世紀、ピョートル大帝が西欧文明導入に躍起になったことに始まる。大国ではあるが後進国であった事は間違いない。訪問時にさえも未だ農奴制の匂いが微かに漂ってくるような気がしたのであるから。その憧れのフランスのナポレオンに攻め込まれたのは皮肉である。

 江戸時代、ロシアには多くの日本人の漂流民が流れ着いた。18世紀、首都サンクトペテルブルグでエカテリーナ女帝に謁見した大黒屋光太夫が有名である。約10年間、留め置かれた。この女帝はドイツから嫁いできた外国人である。当初はロシア語がしゃべれなかった。軍人のポチョムキンを愛人あるいは夫としていたことでも知られる。無論、偉大な女王であったことは誰しもが認めるところである。

 ロシア宮廷の不思議さを覗いた。

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 そういうロシアだが昔から好きだった。ドイツ同様に音楽と文学の豊かな土壌を持つ。世界にドイツ以上の影響力を及ぼしたかもしれない。ロシア革命とその新しい社会は一時的にせよ、当時の多くの世界の若者を魅了した。

 一方、筆者には、滅びゆくロシアとその大地に生きた人々の哀愁をどうしようもなく愛した幼い頃の記憶も蘇ってくる。貴族の為のチャイコフスキーもいいが、ボルガの舟歌カリンカ黒い瞳、など、民衆の為のロシア民謡は、切な過ぎるが故に、尚いい。ロシアは最も身近にある、かつては多くの日本人にとっての”憧憬の西欧”でもあった。今のロシアやこの時代とは違い、当時は未だそういうセンチメンタルな想いに浸れる温もりが双方に残っていた様な気がする。

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ボルガの船曳き

 さて、ロシアには二度ほど訪れたがモスクワまでは未だアエロフロートしか無く、機体が見るからに重そうで不安に思ったものだ。モスクワ以外ではサンクトペテルブルクまで脚を運んだ。

 

 モスクワのシュレメチボ国際空港に降り立った時には何処の地方空港だろうかと思うほどに古びた空港だった。共産党時代、欧州からの帰途、この空港に給油の為だったろうか一時着陸した。冬の曇天の下、銃を持った兵士にターミナルまで取り囲まれて歩いた。囚われの身になったような心細い気分が一瞬、蘇ってきた。

 

 市内まで森林を縫って走ったが、あれはタイガではなかったか、市内の側まで針葉樹林が迫っている光景に妙な感動を覚えた記憶がある。草原の無い針葉樹林を縫って、流石にフン族はここまでは軍馬を差し向けられなかっただろう。この国には”タタールのくびき”と言われる忌まわしい時代が長く続きロシアは停滞した。因みにフィンランドはモンゴル系の遺伝子を有する国だがこのフン族の進攻やフン族とも関係がない。タキトゥスが”フェンニ”と称した事に由来する。遠い昔にシベリアを経由してモンゴル系の部族が到達して遺伝子を残したに過ぎない。

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 モスクワでは、早速、ボリショイ劇場に飛び込み、天井桟敷席からオペラを鑑賞した。立ち席である。当たり前だが天井が直ぐ頭上に来る。ボリショイ劇場の天井は高い。舞台はほぼ真上から見下ろすかたちになり、役者の頭しか見えやしない。ミュンヘンバイエルン国立歌劇場でも天井桟敷であったが、こちらはボリショイ劇場ほど天井は高くなかったような気がする。が、立ち席は押し合いへし合いで人気演目が掛かっていた。

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 サンクトペテルブルクからモスクワまで帰ってくると、ロシア通でオペラ好きの商社の駐在所長がコネを駆使してオペラを予約してくれていた。何処もコネは非常に重要なビジネスツールである。ムソルグスキーのロシアオペラ、”ボリス・ゴドノフ”だった。ニューヨーク駐在時代もメトロポリタン劇場でよくオペラを鑑賞したが、今にこの感動を超えるオペラを知らない。特にそのアリアには感極まった。因みにボリス・ゴドノフはモスクワ大公国の下級貴族からツアー位に就いたタタール人である。

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ボリス・ゴドノフ

 サンクトペテルブルクでは更なる感動が待っていた。ゴーゴリやドフトエフスキーの作品によく出てくるあのネフスキー大通りに立てたことである。感無量だった。この通りの先から僅かに逸れてネバ川の岸辺にかつての冬宮殿、今は美術館のエルミタージュ宮がある。誰しも展示物以上にその建物に感動するのではなかろうか。

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 このネバ川に停泊していた巡洋艦オーロラ号からこの冬宮殿に向けてロシア革命の号砲が放たれたのである。

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 マリンスキー劇場ではバレー”白鳥の湖”に招待された。未だ売り出し中だったろうか、指揮者はこの劇場の名を世界に高らしめたゲルギエフだった。今では彼の振るチケットは入手困難であろう。バレリーナ達がこの世の物とも思えない素晴らしさでため息がでた。中でもブリマドンナの手足の長さには驚いた。嘘か真かロマノフ朝時代には、いい遺伝子同士を結婚させて最高のプリマドンナを作るとのことだった。本当だとしたらまるで競走馬の世界だ。あの時の彼女も、もしやそうだったのかもしれない。容姿と典雅な踊りが抜きん出ていた。本当のカーテンコールとはこういうものだと得心した夜だった。郊外には夏宮殿もある。少々内装が華美で軽薄な印象が残った。

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 モスクワでは、無論、赤の広場クレムリンは欠かせない。レーニン廟には蝋人形のような本物のレーニンの遺体が”展示されていた”。随分、小柄な人であった。クレムリンの中に入ったが、ここが世界の中心の一つ、エリツイン大統領が執務しているかもしれない、などとは頓着せず、建物群の壮麗さにただただ見入るばかりであった。モスクワではキャビアが一番の土産物になっていた。

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 さて、どうであろう。やはりビジネスで訪れるような国ではないことを理解して頂けたに違いない。

 

 ロシアには冬がよく似合う。