海の向こうの風景

地平の更にその海の向こうに生きて来た日々

海の外に憧れ、そこにひたすら生きて来た。五大陸、四十数ヶ国に旅し、途中、サウジアラビアと米国に約八年間住み着いたものの、年月を重ねると望郷の念、止み難し。その四十有余年を振り返り長い旅を終えることとした。

地平線にクラクラ

 世界には地平線しか見えない土地は意外に多い。行けども行けども視線の位置が変わらない。極端な話、瞳は全く上下動しない。もっとも都市を離れて遥か郊外に出ないとそういう光景には出くわさない。木々さえ遮る事のない田園地帯に立たないとわからない。だからあまり経験する機会はないかもしれない。

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 ただ、日本人にはその光景にはいたたまれないに違いない。何しろぐるりと見回しても全く山が見えないのだから。視界のほぼ80%は空と言って良い。そこに立つと自分がまるで素っ裸にされた様な気分になる。何処にも隠れ様がないのだ。隠し様がないのだ。

 アメリカの中西部の田園地帯に立った時には頭がクラクラした。この足元の心許なさは何なんだ。人生でかつて経験したことがない平面空間だ。脳が虚無的世界に陥ったと錯覚したからに違いない。こんな土地に住み着いているアメリカ人とは絶対に肌が合う筈がない。話す気さえ起きてきやしない。例えどんなに才色兼備の魅力的な女性に言い寄られても到底付き合う気にはなれない、断言してもいい、かな。そういう空間だ。

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 遠く近く、山の端(は)が見えてこその安心感である。地面から競り上がってくる緑に覆われた山々が視界におさまってこその居心地の良さである。山が常に視界にある事ほどの幸福感は無い。きっとスイス人も同意するに違いない。

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 小さな国にも壮大な地平線がある。訪問した国々の中では、オランダ、デンマークが双璧かもしれない。起伏のある地平線はいくらでも見る事が出来るが、真一直線の地平線はそうは無い。両国にはそれがある。ほぼ水平線すれすれに地表が薄膜の様に浮いているからである。米国のフロリダ半島もそういうところである。

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 因みにデンマークには最高峰は無い。最高地点らしきものならある。標高にして170m程である。それもなだらかな起伏の中の一点だから見ても分からない。その意味では山は存在しない。彼らは山を知らないのだ。果たして山という言葉を持っていたのかさえ疑問である。この国の自転車にブレーキが無くても納得するしか無い。

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 オランダに至っては国土の半分以上が海抜5m以下だから地平線は水平線の下になってしまう事になる。何ともややこしい国だ。但し、こちらには最高峰はある。ドイツ、ベルギーに挟まれて無理矢理その間に手を突っ込んだような狭隘な場所にある。標高約320m、エッフェル塔とほぼ同じ高さであるが、海岸から遥かに離れた場所にあるから光景としては大した高さには見えないだろう。

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 オランダの場合は道路も一直線である。両脇を木立に覆われていなければ、知らぬ間に車は離陸してしまうに違いない。そういう尻の辺りになんとも言えぬ感覚が湧き起こって来る。こちらは車にブレーキがいらない。

 多くの地平線は機上からの方がより壮大さを体感出来るだろう。ある夜、NYへの帰途、ロッキー山脈を超えて大平原にさしかかった時である。大平原を覆う大気に信じ難い光景が現れた。まず機長が興奮した。パイロットを長くやっているがこんな光景に出くわしたのは記憶に無い。皆も是非とも窓の外を見てくれ、というアナウンスである。そこには暗闇が広がっている。大平原だから地上に灯りは無い。その暗闇に遠く稲妻のカーテンが広がっていた。何十本の鮮やかな光線が激しい降雨の如く暴れ回っていた。無音である。数十分途切れること無く、光の演舞が続いたのである。遮るものの無い大平原にはそういう事が起こる。君を想う心にもこういう制御の効かない激しい光が偶に舞うのである。

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 インドのデカン高原を飛ぶと遠くヒマラヤ山脈が霞んだ地平線の上に航路に添うように延々と姿を現す。ヒマラヤ山脈が天空に浮かぶ。上海から北京に飛ぶと、かつて春秋戦国時代に梟雄達が覇を競った大平原が現れる。中原である。今も不毛の赤茶けた平原が広がる。まさか数千年、変わる事のない光景なのだろうか。カナダの大森林地帯を北方に飛ぶと糸の様な道路が同じ目的地に向かって延々と細々と健気に続いている。その先に住む僅かな人々の生命線になる。この糸こそが森林地平線の光景を絶景にする。アラビア半島を東西に飛ぶと地平線は砂塵に埋もれる。その地表を覆う砂塵の大気が空中に擬似的な地平線を引く。真っ青な空とのコントラストにまたもや頭がクラクラする。

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 地平線のある世界では思わぬ光景に出くわす。君も一度飛んでみるといい。地上の事など些細な事に思えてくるだろう。その遥か上空に至る宇宙飛行士は、だから哲学者になる。

 

了