海の向こうの風景

地平の更にその海の向こうに生きて来た日々

海の外に憧れ、そこにひたすら生きて来た。五大陸、四十数ヶ国に旅し、途中、サウジアラビアと米国に約八年間住み着いたものの、年月を重ねると望郷の念、止み難し。その四十有余年を振り返り長い旅を終えることとした。

アジア慕情

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  かつての漢字文化圏は中国(香港、澳門)を中心に、台湾、越南、星港、韓国、日本であった。

 越南と韓国は既に漢字使用を廃止して久しい。中国語を公用語としているのは中国、台湾、星港である。但し、星港は公用語を4つ持つ多言語国家である。今や厳密な漢字文化圏と言える国は中国(香港、澳門)、台湾、日本に限定される。

 本家の中国も甚だ怪しい。文明・文化の根本である漢字を簡体字に改変、その成り立ちの痕跡を消し去ってしまった。香港、台湾のみが旧字(繁体字)を維持している。日本はその中間にある。かつて漢字文化を受け入れた周辺国にとって簡体字は理解困難となり中国では旧字を理解する人は少数になりつつある。だからかつての漢字文化圏では先人達のように筆談が出来なくなって久しい。ただ、中国でも漢詩や書の世界には今も旧字は残る。簡体字では流石に格好がつかない。海外諸国にも漢字を使用する中国コミュニティは残るが文化形成の視点からは最早力を有しない。いずれ現地文化の中に消え去っていく運命にある。

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 香港はかつて英国の租借地であり英語を公用語とし英国風と広東風が併存する特異な文化を有していた。今、中国政府の露骨な政治介入で中国化が急速に進展しつつある。一つの特異な文化が消えて行く。寂しいことである。

 その中国は漢字に加えてかつて文化大革命で歴史的遺産を悉く破壊してしまった。往時の面影を残す史跡が乏しい。故宮にあった歴史的文物の多くは蒋介石の国民党が台湾に持ち去り難を逃れた。皮肉なことに地下の埋蔵遺跡は破壊されずに残った。極論を厭わなければ、正統な中国文明の残光は漢字文化を墨守する台湾と日本に残り細々と継承されているのである。尤も中国の次なるターゲットは台湾であり、こちらも香港の二の舞となる不確実性は残っている。

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 政治体制を除けば本家中国は歴史的には世界で最も魅力的な国であることは間違い無い。唯一、芸術文化に乏しいのが難点である。世界の芸術界から見るとその多くは工芸品の類になる。歴代中国王朝は芸術を見下し文を偏重した。中国の芸術は、いわゆる文人墨客の為すものである。その多くは台湾の故宮博物院に残る。

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 筆者が初めて海外出張したのは香港であった。その後も長い間、関係を保ち頻繁に訪れた思い出深い地である。99年間の英国の租借期間が1997年に終了(南京条約では永久割譲であった)、以後、50年間は現行制度が維持されることを条件に中国に返還された。一国二制度である。中国の心情も分からぬでも無いが、習近平体制はこれを踏みにじった訳である。

 香港は観光と金融センターとしてアジアでも抜きん出た一級の華やいだ街であった。ビジネスパートナーの質も世界の中でも断然高かった。その命脈が絶えようとしている。再訪するには危険な街になってしまった。

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 かつて香港のあらゆる場所を巡った。実に混沌として活気溢れる魅力的な庶民の街でもあった。1998年までは空港(啓徳空港)は九龍地区の街中にあって世界で最も危険な空港と呼ばれていた。

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香港島の周囲には未だ水上生活者が多く暮らしていた。乗り込んだ作業船による波が家船(えぶね)を揺らしていた記憶が蘇ってくる。隣の澳門には高速船で渡った。客先の建物は文化財にもなりそうな薄緑色に塗られた古色蒼然とした木造であった。香港が光とすれば澳門は影のような鄙びた活気に乏しい街だった。隔世の感がある。

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 香港から二時間も飛べば台湾(台北)に着く。この地も数えきれぬほど訪問した。かつて日本が統治していた面影が残っていて、なんだか懐かしさが染み入ってくるような街だった。南方から戻ってくるとホッとする家庭的な街でもあった。ビジネスの世界でも現地の人の多くが日本語を解し、夜の飲み屋街では女給達に日本語は必須であった。かつて蒋介石の国民党に連れてこられた兵達は、ある者は中国本土に家族を残したままこの地で老境を迎えていた。未だ貧しさが残っていた。

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 香港ではタイガーバーム、台湾では古い商家に台湾茶を求めた。必ず試飲させてくれた。目配せすると鍵のかかった路地裏部屋に連れ込まれ、安価だが品質抜群の偽物ブランド時計も手に入った。これらは日本人には定番の土産物だった。

 いずれの地も中華文明の下層に生きる庶民の逞しくも抒情的な暮らしや風景が残っていた。今は多くが消えてしまった。あの頃の中華文明圏は実に誠に魅力的だった。かつて権力に翻弄されて来た庶民の自立した生活が、騒擾の中に、路上に、溢れていた。旅情を掻き立てて止まぬ舞台、庶民による巣窟があちこちにあった。

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 香港を舞台にしたハリウッド映画がある。ジェニファー・ジョーンズウィリアム・ホールデンの「慕情」である。香港島にあるビクトリア・ピークとレパルス・ベイが逢引きの場所である。古き良き時代の香港が溢れている。原題は“Love is a many splendored thing” 、その主題歌は今も歌い継がれている。歴史の中に過ぎ去りつつあるアジアの抒情をこの歌に託して君に贈ろう。

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了