海の向こうの風景

地平の更にその海の向こうに生きて来た日々

海の外に憧れ、そこにひたすら生きて来た。五大陸、四十数ヶ国に旅し、途中、サウジアラビアと米国に約八年間住み着いたものの、年月を重ねると望郷の念、止み難し。その四十有余年を振り返り長い旅を終えることとした。

恋の舞台

 恋は駅に始まり駅に終わる。現実の生活もそこに共にある。だから自分を投影しても比較的距離感は生じない。同じ恋でも海浜(海辺、砂浜等)を舞台にすると生活臭が消えて距離感が生じてくる。

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 駅には、西欧では終着駅、日本では通過駅という違いがある。この違いは心理的に大きな違いを生む。終着駅、彼や彼女は必ずここに戻ってくる。その帰りをいつまでも待つ事が出来る場所なのだ。決して通り過ぎては行かない。出会いや別れもここに生まれ、ここで終わる。

 通過駅、心の終着駅にする事は出来るが世間はそれを認めてはくれない。終着駅は逃げようがないが通過駅は降りずに済むからだ。だから終着駅ではどうしても決着をつけざるを得ないことになる。それだけにここでの別れの哀しみはより深く、たとえ傍観者の世間にも切なく沁みこんでくる。認めざるを得ないのだ。だから恋の舞台は終着駅がいい。

 これに次ぐ舞台が海浜である。砂浜である。水平線が見果てぬ夢の、日の終わりを告げる夕陽が恋の終わりの象徴になる。概ねそこは避暑地や別荘地である。この舞台装置により生活感や庶民臭はほぼ消えてしまう。日本人には多分ここには現実感を見出し難い。

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 駅は心の葛藤を確実に投影する。海浜は夢の儚さを演出する。いずれを恋の舞台にするかは好き好きである。

 駅や鉄道や海浜は数々の映画の名作の舞台となった。思春期の少年達にとっては、内容はそっちのけで寧ろ女優とそこに流れるテーマ音楽がどうしても重要な感情移入の引き金になってしまう。

 懐かしい少年時代に戻るなら、アメリカのオレゴン州の片田舎を通る線路が主要な舞台となった”スタンド・バイ・ミー(1986)”だろう。但し、かわいい女の子も恋の話も出て来ない。少年達だけの世界だ。森の中に果てしなく続く線路はあくまで冒険の象徴である。

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 やがてこの少年達は思春期を迎え、大人の女性への憧れに胸をときめかせることになる。少年誰しもに普遍的な通過儀礼だ。もう冒険はおしまいだ。少年達は線路の先にあるに違いない恋の終着駅を目指す。

 ナタリードロンの”個人教授(1968)”、フランスの地方の終着駅が舞台である。フランシス・レイの音楽が少年達の胸を衝く。

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 年上の女性への憧れと言えば、もう一つある。こちらはアメリカのニュー・イングランド地方の海浜が舞台になる。ジェニファー・オニールの”思い出の夏(1971)”、少年の初体験への憧れはここに尽きるのではないか。ミシェル・ルグランの音楽が甘酸っぱく少年達を包み込む。

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 やがて少年達は大人の恋に目覚める。ただ味付けがいる。叶わぬ恋である。別れは不可避である。終着駅は大人に成長した少年達に別れの辛さと愛しさを教えてくれる。ミラノ中央駅ソフィア・ローレンの”ひまわり(1970)”、ローマ・テルミニ駅、ジェニファー・ジョーンズの”終着駅(1953)”が象徴的である。

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 命の終着駅に向けて走る列車にも舞台が用意されている。ロミー・シュナイダーの”離愁(原題:Le Train、1973)”、ナチスから逃亡する命を乗せた線路に恋が開く。結末の画面のstop motionに全てが集約されているがその行方は勝手に想像するしかない。

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 海浜に目を転じればバーバラ・ストライザンドの”追憶(1974)”がある。テーマ音楽の”The way we are”が過ぎ去りし日の切なさを盛り上げてくれる。大人の世界に浸かってしまった少年達の恋の名残りでもある。

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 大人の恋は複雑である。今までに気付かなかった真実の愛が、突然、そこに顔を覗かせるからである。それに気付く事の出来る年輪を刻んでいるからである。一生に一度、出会えるか分からぬ本物の愛に目を背ける勇気は誰にも無い。そして相手の幸せを祈るだけで満たされるのが本物の愛なのである。永遠の愛というものなのである。映画では決まってそこを突いてくる。

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 さて駅や海浜の舞台を用意しなくても大人になった少年達を満たしてくれる女優もいる。恋を現実と非現実の中に演じるに相応しい女優、カトリーヌ・ドヌーブオードリー・ヘップバーンである。例えれば陰と陽の女優ということになろうか。日本人である筆者としては、陰のカトリーヌ・ドヌーブに寄り添わざるを得ない。アメリカ映画よりはヨーロッパ映画に軍配を上げざるを得ない。そこには常に生活感が滲んでいるからである。恋の舞台はアメリカの海浜よりヨーロッパの終着駅に譲るしかないのである。

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 西欧を旅する時には是非とも終着駅を訪れよう。どの街の駅も恋を語ってくれる。君をひととき主人公にしてくれる。海は流石に不便だから時間がある時にでもしたらいい。

 

了