海の向こうの風景

地平の更にその海の向こうに生きて来た日々

海の外に憧れ、そこにひたすら生きて来た。五大陸、四十数ヶ国に旅し、途中、サウジアラビアと米国に約八年間住み着いたものの、年月を重ねると望郷の念、止み難し。その四十有余年を振り返り長い旅を終えることとした。

教会建築に見る西欧権威主義とイスラム精神主義(3)リヤド徒然記1994.01.20記

 西欧諸都市に遺る教会建築はどれをとっても荘厳にして威圧的であり、とても好きになれません。

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 ゴシック建築の粋なぞと賛美するような代物では決してないにもかかわらず、皆して休暇旅行の機会に訪れ、さぞや素晴らしいと嘆息し、自国の貧相な現代建築に思いを馳せたことだろう。ドゥオモ、ドームと称されるあれらです。キリスト教聖職者の権威の絶対性を示す為だけに建てられたものであり、よくよく考えればこれほど唾棄すべき愚物はありません。騙されてはいけません。物事の本質を見てみましょう。

 

 古代オリエントギリシャ文明における偉大な遺産を葬り、人々を天動説といった幼稚な世界観と魔術的思考の時代に引き戻してしまった、人類の精神的向上に反する大罪を行った者の残滓とみなければなりません。だから徹底的に容赦を加えず批判し続けることこそが、商業捕鯨をいたずらに邪魔し続けるグリーンピースのような似非ヒューマニズムとは違う、無垢な精神を持った地球市民としての崇高な徳目です。

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 それに比べわがモスクのシンプルさはどうでしょう。権威主義の欠片もありません。そもそもそのようなものは不要なのです。自然な気品と感動的な優雅さをもって、砂漠だろうが何処だろうが、精神を解き放ち信仰するその真摯さがすべてです。

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 古代オリエントギリシャ文明の偉大な遺産に光を当て、拾い出し、次に来るルネッサンス以降の西欧の発展に、その遺産の継承を可能ならしめたのは、ほかならぬアラブ・イスラムなのです。そのイスラムの寛容で高貴な精神性に注目しなければ、ここに住む意味を問われかねません。

 

 キリスト教信者がおられたら棄教のお手伝いを厭うものではありません。旅行先で教会建築を見学する機会には、「皆して唾しよう」運動を提唱し、また、そっと実行している筆者です。

 

(背教者ユリアヌス)

 

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  • 中近東駐在者は他地域に比較しハードシップが高かった(生活環境の厳しさ)。よって健康診断休暇と称して会社負担で年数回国外に出ることが出来た。これにラマダン(断食月)やハッジ(巡礼月)の時期を利用し、個人の有給休暇を使っての海外旅行にも出かけた。年3~4回の海外旅行が可能だったという訳だが、ただ、この国に割引料金や旅行パックなど存在しなかったから結構、駐在員の懐を苦しめた。
  • 西欧の教会建築はいずれも目を見張るものばかりであった。が、その教会と庶民の暮らしとのギャップに思いを馳せた時、例え喜捨や教会領地からの調達資金であったにせよその使い方に疑問を感じざるを得なかった訳である。数百年をかけて教会を建築する意味は何なんだろうと。
  • それに比較し、中東の人々は簡素であった。お祈りの時間がくると、どのような場所にいてもメッカに向かって礼拝を怠ることはなかった。その姿が神々しいと感じた訳である。彼らは西欧のように教会を通じて神とつながる必要はなかった。直接神につながることが出来た。その違いを考えさせられた訳である。
  • 勿論、天罰を恐れ、実際に唾するようなことをするよしもなし。