海の向こうの風景

地平の更にその海の向こうに生きて来た日々

海の外に憧れ、そこにひたすら生きて来た。五大陸、四十数ヶ国に旅し、途中、サウジアラビアと米国に約八年間住み着いたものの、年月を重ねると望郷の念、止み難し。その四十有余年を振り返り長い旅を終えることとした。

海の向こうの不確かな美 徒然記(1)

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 昔から芸術作品というものにどう接したら良いのか教えを請いたかったものだが、ついに果たせぬままである。

 

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 絵画や彫刻の類においては人一倍鑑賞下手なのである。自慢するようで嫌味かもしれないが、世界中の数々の美術館、博物館を訪れた。だが立ち尽くす程の感動を覚えたことがない。世に言う傑作の類は目の前で舐め回すように観たのだが、震えるほどの感動が訪れたことは皆無なのである。生まれつき美に対して鈍感という事だろうか。そういう遺伝子を持たない人種もいるという事で納得するしか無いのであろうか。それはそれで悲しい気分である。

 

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 モナリザとミロのヴィーナスはルーブル美術館でセットで見られる。しかも何度も訪れ今日こそは感動の嵐だろうと臨むのだが何も込み上げてくるものがないのである。ロダン美術館の考える人、地獄の門大英博物館ロゼッタストーンエジプト考古学博物館ツタンカーメンの秘宝、ウフィッツイ美術館の受胎告知、ヴィーナスの誕生、アカデミア博物館のダビデ像サン・ピエトロ寺院ピエタ、どれもこれも脳天を突き抜ける程の感動には至らないのだ。

 

 過度に期待するが故なのであろうか。ピカソ美術館、ゴッホ美術館、オルセー美術館、大家達の絵画で溢れているが、同様なのである。感性の欠如という、語るも恐ろしき事実を認めざるを得ないのであろうか。

 

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 ただし、である。名もなき人々の残したものへの感動はとめどが無い。ただただ立ち尽くすばかりなのである。イスタンブールアヤソフィア、ローマのパンテオン、この二つにはひれ伏しても余りある感動を得たのは何故であろう。パルテノン神殿もなんなら含めてもよい。風雪に耐えて来たが故であるか、いや、そうではない。誰がこのようなものを如何なる技術をもって作ったのか、おそらく今日の技術をもってしても困難なのではないか、そういう畏れ多さを突きつけてくる。想像を限りなく広げさせられるのである。それが琴線を震わしめるのである。それは美の範疇ではないのかもしれぬが、それが筆者の美意識なのだから仕方がない。

 

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 ただ圧倒的過ぎてもいけない。ピラミッドには何も感性が発動しなかったのである。これはもう偉大な自然に近づき過ぎた訳である。自然の美、それはもう別物である。神の領域にあるものだからである。人の領域にあるものと同じ捉え方は出来ようはずもない。

 

 さて、芸術作品とは言え、人が傑作だからと言って必ずしも感動が伴うものでも無い。人の感性はそうは安っぽくはない。それぞれに感動のツボが違うのである。例えば、人のある種の行為に対してさえ、ささいな事でも感動を呼び起こし涙さえ厭わないこともある。日常の中に自然な形で現れては消えていく、多分、大切なものではないか、と意識が反応するものがある。人々が思い掛けず紡ぎ出す美質の類である。素朴な民藝の類である。

 

 我が日本では、古来、四季折々に人々の自然に委ねる素朴な営みとその調和が至る所で一幅の絵を提供した。花鳥風月への細やかな想い、密やかな想い、こそである。そういう名もなき人々の何気ない行いの中にこそ共感する美が見え隠れするように思うのである。偽りの無い共感を伴うのである。

 

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 西行法師の観る、如月のその望月なのである。その清透な光なのである。それに対する想いなのである。ふと口をついて出る言葉なのである。

 

 海の向こうの美にはどうも馴染めない。感性の欠如は致し方ないと諦めることとした。